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平岩主計頭親吉ひらいわかずえのかみちかよし(1542~1611年)

親吉は、平岩親重の子で、三河額田郡坂崎に生まれた。
幼児から徳川家康に仕え、特に同年の家康の側にあって常にその行くところに従った。
家康が六歳で尾張織田氏の質となったときも、八歳で再び今川氏の質となったときも共に随って行った。

桶狭間の戦で家康が兵粮を大高城に入れる時は、親吉護衛に当たっている。
その後、一向一揆の乱、姉川及び三方原の役、長篠戦、高天神役、真田攻め、岩槻城攻め等大小の合戦に従軍して殊功を立て、天正十六(1588)年家康の上洛に従って主計頭に任官した上厩橋(現群馬県前橋市)三万三千石に封ぜられた。
親吉は、家康の側室築山殿及び嫡子信康が賜死の場合は始末にあたるを始め、第八子仙千代及び義直二公子の傅役となり、主家の内事にも頗る功があった。
ついで甲州新府(現山梨県甲府市)で六万三千石となり、更に犬山城(愛知県犬山市)十二万三千石に昇った。
義直が甲斐に封ぜられた時、傅役に任ぜられてより尾張に移るにあたり特に家康は、尾張一藩の政務を委任する黒印の書状を賜った。
これ以来親吉の権勢は国中を圧した。

名古屋城築城にあたっては総指揮官となり、また名古屋の街を形成する事に務めた。
慶長十六(1611)年十二月晦日名古屋城二の丸御殿に病んでここに没した。
享年七十歳。

平岩主計頭親吉掛軸
平岩主計頭親吉墓石

中央:平岩親吉
向かって右:家康第八子仙千代
左:親吉が亡くなった時殉死した家臣
本多勘助親信

平岩主計頭親吉位牌